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高橋 直樹(たかはし なおき、1945年2月15日 - )は、大分県佐伯市出身の元プロ野球選手(投手)・プロ野球指導者、野球解説者、実業家。家族が経営している有限会社ナオキ企画(ひばりプロダクションと業務提携)に所属。 ナオキ企画ではプロ野球選手の講演・野球教室を主に、芸能界でのイベントの企画も行っている。最近ではWBA世界バンタム級王者の亀田興毅の世界戦(済州島)での君が代独唱に歌手の美川憲一を起用しプロデュースしたり、歌手の細川たかしのコンサートを企画、野球教室とコラボレーションした。CRぱちんこ華王・美空ひばり(京楽)のプロデュースや銀河高原ビール 美空ひばりメモリーズギフトのプロデュース等、業務は多岐に渡る。代表取締役社長 高橋圭子、取締役 高橋美紀。 サロン経営や、医院経営、野球塾の経営等もしている。 == 来歴 == 津久見高校に入学試験を普通科トップの成績で合格、入学当初はオーバースローであったがアンダースローに転向する〔週刊ベースボール2014年12月1日号72、74p、ベースボール・マガジン社〕。の夏の甲子園に出場。1回戦で中京商の三輪田勝利と投げ合い3-4で逆転負け。1年下のチームメートに控え投手の池田重喜、三塁手の中村国昭がいた。翌年の一般入試で早稲田大学へ進学、三輪田と大学同期となる。東京六大学リーグでは八木沢荘六、三輪田の控えに回り、12試合に登板して2勝2敗。春季リーグでは田淵幸一に第6号の本塁打を喫した。 1967年のドラフト3位で東映フライヤーズに指名される。ドラフトの交渉権を保留したまま日本鋼管に入社し、の都市対抗野球大会にエースとして出場、1回戦で三菱重工水島の松岡弘に1-0で投げ勝つなど活躍した。 その後、ドラフト最終期限(1968年10月10日)前に東映フライヤーズ入団。土橋正幸より背番号21を受け継ぐ。ゆったりした動きから手首を返し、握りを見せるフォームから繰り出すサイド気味のアンダースロー投手として2年目の1969年より先発ローテーションに定着。5月までに5勝、その後勝ち星から遠ざかるが、7月後半から8勝し、13勝を挙げ、チームのエースとなる。6月16日の対近鉄戦で打者27人でのノーヒットノーランを達成する〔このほか日本ハム時代に対阪急戦で1安打完投を2回達成。〕〔この試合は日拓2安打、近鉄0安打で1試合両チーム合計安打数の最少タイ記録の試合でもある。〕。また、8月18日には対近鉄戦で「先発してリードしたまま5回を投げた後で一度三塁手の守備をして、セーブが付く条件でリリーフ登板して9回まで投げてチームが勝利した」ことで、史上唯一の「一人で1試合の勝利投手とセーブ投手の両方を記録」を達成した(ルール改正により翌年から達成不可能となる〔当時のルールでは勝利・セーブの両方を認めない理由がないため高橋に両方が記録されたが、ルール改正によりセーブを記録する投手の条件として「勝ち投手の記録を得なかった投手」が入った(現行ルールでは高橋のようなケースではセーブが付かずに勝利のみが記録される)。〕)。 には17勝を挙げるなど、東映時代末期から長く不動のエースとして活躍。の鳴門キャンプ時からはやさしい表情をカバーするため、口ひげを蓄えるようになり、それ以前から常用していたメガネとともにトレードマークとなっていた。これについては、「プロ入り10年で100勝の目標を達成したので『変わったことをやってみただけ』だ」〔プロ野球を創った名選手・異色選手400人133P、新宮正春、米田厚彦、講談社、1999年、ISBN 978-4062645218、本人の談話による〕とも言う。同年4月のパ・リーグ初MVPを獲得、結局シーズン最多無四球試合11のパ・リーグ記録と20勝をマークする。 監督の大沢啓二の抑え投手補強のチーム改革に沿う形で、江夏豊とのトレードで広島東洋カープへ電撃移籍。20勝エースとリリーフエースとのトレードで大型トレードとして話題になる。当時大沢は高橋に投手陣の中心になることを期待しており、広島オーナーの松田耕平および監督の古葉竹識に江夏の獲得を申し入れた際、交換条件として高橋の名を挙げられると「高橋だけは出せません」と答えた〔。しかし広島側は条件を譲らず、迷った末に決めたと後に記している。広島では2年間で2勝。6月、古沢憲司・大原徹也との交換トレードで西武ライオンズに移籍。大学の先輩である広岡達朗が監督のもと、再び慣れ親しんだパ・リーグで7勝を挙げ、ライオンズの所沢移転後初優勝・日本一に貢献。さらに翌年には、13勝3敗で最優秀勝率のタイトルを獲得。12月、トレードで読売ジャイアンツに移籍が決まり翌年加入。同年オフに他球団からのオファーはあったものの、自ら引退を決意。高橋の引退によって、日本プロ野球に所属する現役選手は、全員戦後生まれとなった。42歳まで現役を続けた。勝利数169のうち167をパ・リーグで挙げている。 引退後、からまで日本テレビ・ラジオ日本 解説者、からまで横浜ベイスターズ一軍投手コーチを務めた。よりNHK・メジャーリーグ中継の解説を務め、、カンザスシティ・ロイヤルズにて日本人初の投手コーチに就任する。 いち早くメジャーリーグに目を向け、より、NHK・メジャーリーグ中継の解説がメインとなる。 より、流通経済大学硬式野球部のコーチに就任し、学生を育成。 チームを強くする事に尽力。スカウトに売り込み、プロ入りする学生も出てきた。 より、高橋直樹野球塾を立ち上げる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋直樹 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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